「赤玉ポートワイン」(現・『赤玉スイートワイン』)というワインをご存知ですか? このワインが、サントリーの事業活動の原点となった商品です。今から100年前に生まれました。
当時はまだ「サントリー」という社名ではなく、「壽屋」という名前で洋酒や缶詰といった、輸入食品を取り扱っていました。ワインもそのひとつでした。 サントリーの創業者・鳥井信治郎は、当時から西洋文化に造詣が深く、洋酒を見る目もすでに養われていました。そしてそれなりの自信を持ってスペインからワインを輸入してきたのですが、ワインを飲みなれていない日本人にはなかなか受け入れられませんでした。
「赤玉ポートワイン」は記録的な大ヒットを飛ばし、「サントリー」の社名の由来にもなりました。赤玉の赤い丸は太陽。つまり「SUN」。これに創業者の名字である「鳥井」を足して「サントリー」という社名が生まれたんです。
鳥井がワインの次に製造に乗り出したのが国産のウイスキーでした。様々な洋酒について調べていく中でウイスキーのおいしさと熟成の神秘を知り、「いつか日本にもウイスキーの時代が来る。ウイスキーを自分の手で作りたい」と強い想いを抱いたからです。そして鳥井は、赤玉ポートワインで儲けたお金のほとんどを、材料を買ったり蒸溜所を建てる土地を購入したりと、ウイスキーづくりにつぎ込んでしまったそうです。
せっかく儲けたお金が、ウイスキーをつくるための土地の購入や設備投資に消えていく…。ましてやウイスキーなんて当時ほとんど知られてもいないのに…と、社員からも反対の声があがったのですが、鳥井には「やってみなければわからない。長い年月をかけても、絶対につくるんだ」という確固たる信念があったようです。
ウイスキーづくりに大切なのは、良い水と良い自然環境。鳥井が蒸溜所に選んだのは京都の山崎でした。1924年に完成した山崎蒸溜所は、サントリーのウイスキー「山崎」の名前の由来にもなっています。
ウイスキーは仕込んですぐにできるというものではなく、樽の中で何年も何年も寝かせる必要があるのですが、そういうお酒であるとは誰も知らなかったので、サントリーが山の中で「ウスケ」という怪物を飼っているという噂が流れたこともありました。 毎日毎日材料として大量の大麦が運ばれ、蒸溜所からは煙がもくもくと上がっているのに何もできあがってこない。あそこには大麦を食べる怪物「ウスケ」が住んでいるんだ、などと近隣住人の間で噂になってしまったんです(笑) それだけ、当時の日本人にとってウイスキーというのが謎の存在だったということですね。
最初のウイスキー「サントリーウイスキー白札」が世に出たのは1929年。蒸溜所の建設着手からおよそ6年後のことでした。
正直言って、あまり芳しいものではありませんでした。 ひとつは値段の高さ。そしてなによりも、まだ日本人の舌がウイスキーを飲めるほどには洋風化していなかったために、ウイスキーの需要自体がなかったのです。 苦悩の時代でしたが、鳥井は「需要がないのならつくり出せばいいのだ」と前向きにとらえ、日本人好みのウイスキーづくりに取り組みました。 そして誕生したのが今もなお愛されている「角瓶」です。1937年に発売すると大ヒットとなり、日本人の間に国産ウイスキーが浸透していきました。
「山崎50年」は50年以上の原酒だけをブレンドしてつくった「山崎」です。今年は10月に50本限定で発売させていただき、即日完売しました。 50年以上の長い期間を経てもピークを過ぎず、熟成を続けているという非常に希少性の高いモルトを使用しています。
樽の中の状況によって違うので一概にそうとも言えません。いつが飲み頃かは一樽一樽違うので、ブレンダー(ウイスキーをブレンドし味をつくる人)が毎日何百樽という原酒をテイスティングし、いつがその樽のピークかを見極めています。ウイスキーの飲み頃を見極めるのもブレンダーの仕事です。
あと、「天使の分け前」と呼ばれる現象なんですが、樽の中で原酒を寝かせておくと、どんどん蒸発していってしまうんですよ。10年も寝かせると、初めに仕込んだ80%ほどの量になってしまいます。 そういう意味でも「山崎50年」は、非常にわずかで限られた数しか提供できないのです。
そうですね。 私達の先輩が、本当に長い間、必死で原酒を守りぬいた結果です。 ウイスキーの奥深いところは、つくった年にできるのではなく、何十年もの長いときと世代を超えてつくられるということだと思います。もう何十年も前の先輩が仕込んだお酒を後輩が使って、そして今日仕込んだお酒が、あと何十年も先の後輩に受け継がれる。世代を超えた共同作業なんです。長い長い時間をかけて味ができていく、すごく神秘的なものだと思います。
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